ウーベ・ラーン FWのはずであったが、あまりの惨状のためか気づくと最終ラインで働かされていた。
酒蔵 力(りき) 言わずと知れたレッズサポ御用達の居酒屋である 当然店長も熱烈なレッズサポ ナビ杯優勝後の大騒ぎは伝説的だ。
駒場での試合で勝利の際は、浦和店の賑わいはすごいものだ。
近年は武蔵浦和にも店舗を構え、埼スタから電車帰りの人の利用が増えている。\
以前レッズに所属し、現横浜Fマリノス所属の山瀬功治の事。
2004年の躍進の立役者でありサポーターみんなも信頼。一時は“浦和のKING”とまで呼ばれた。
しかし、ホーム新潟との試合で靭帯を損傷、
その後自分が抜けてもレッズの快進撃は止まらず自分の居場所に不安を覚え、某代理人を通じてマリノスに移籍。
クラブ、サポーター共に彼を必要としており慰留に努めたが、「人生をリセットしたい」と言い残して出て行ったためサポーターから最大限のひんしゅくを買う。
その後椎間板ヘルニアを患い、最近ようやく復帰。
恩師である岡田武史監督とともに代表に復帰、大活躍のご様子。お喜び申し上げます。
ミハエル・ルンメニゲ。現バイエルンのカールハインツ会長の「弟」
93年レッズの「やり直し外人補強」でやって来た第2の助っ人。
当時はサカオタの間で「あのルンメニゲが浦和に!」と話題になったが、実際は弟の方であった。確かに年齢を考えたら、兄が来るのは有り得ない話であった。
来日直後のナビスコ清水戦でいきなり2ゴールし「これは?!」と期待させる。
オフェンシブハーフという事だったが、司令塔役よりも意外と高い決定力で、当時非常に貴重だった「浦和の勝ち試合」をいくつかもたらした。
95年国立でのマリノス戦の先制ヘディングゴールを決めた後、いつの間にかレッズを去っていた。
浦和レッズのオフィシャルショップ
住所:埼玉県さいたま市浦和区仲町2-4-1 定休日:月
浦和レッズオフシャルショップ&カフェ 〒332-0016 川口市幸町3-8-46 コスモ川口幸町2F http://www.red-groove.com/
2009/4/30 多くのレッズサポに惜しまれながら閉店となる 埼スタ南広場でのRG号によるアフターバー出店は継続中 ホームゲームではRG号に集まろう!
浦和のチームマスコットの作成は大変に苦労したらしい。
最終的に大野勢太郎氏が当時の浦和の正式名称「三菱浦和フットボールクラブ(MUFC)」を縦書き(最下部参照)したものから架空の生き物を創作したそうで、
これがとんがり耳(Mの部分)で巻き尾(Cの部分)を持つ、犬でも狐でもない、何故か緑の肌をしたレディアである。 レディアはほとんどスタジアムには出てこないマスコットで(フェスタ等にしか現れない)名古屋のグランパス君一家や清水のパルちゃんあたりとは比較にならないくらい出現率は低い。
しかしそのことでレッズサポーターから苦情が出たことはほぼなく、
これもMDPやサポーターズソングと同じくクラブ側の一貫したポリシーが正しくサポーターに伝わっている1例といえる。
試合前にレディアが登場した稀有な公式試合では95年のホーム開催の国立での「3周年記念試合」がある。この時は招かれた3歳児のエスコート役をしてセンターサークルに歩いて来た。
2007年のレッズフェスタにて、リーグ優勝を決めた12月2日に双子が生まれたことが発表された。
名前は公募で決める事になり、「シャーレくん」「ディアラちゃん」という名に決まった。
http://www.urawa-reds.co.jp/tools/cgi-bin/view_news.cgi?action=view&nid=3032
ロブソン・ポンテ(Robson Ponte、1976年11月6日-)は、ブラジル出身のサッカー選手。
ポジションはMF(攻撃的MF)、またはFW。 愛称ロビー
確かな技術と戦術眼で攻撃をリードする選手。
イタリア移民の家系であるためイタリア国籍も持っている。
ブラジル、サンパウロ生まれ。
8歳のころに母親を心臓病で亡くし、18歳のころに父親を癌(ガン)でなくしている。
1996年、地元のサッカークラブ・CAジュベントスでプロデビューを飾る。
頭角を表し、後にグアラニFCを経てドイツのレバークーゼンへ移籍する。
だが、入団当初はあまり活躍できず、2001年にVfLヴォルフスブルクにレンタルされる。
そこでの活躍が認められ、2003年、レバークーゼンへ復帰した。
2004年にレバークーゼンの一員としてUEFAチャンピオンズリーグに出場。
グループリーグでレアル・マドリードを3-0で下すなど旋風を巻き起こした。
ギド・ブッフバルトに口説かれ2005年7月、浦和レッドダイヤモンズに加入した。
2005年8月20日のFC東京戦にてJリーグ公式戦初出場。
永井への鮮やかなアシストとともに芸術的なミドルシュートを決める華麗なデビューを飾り、
たちまち浦和の攻撃の核となった。
その卓越した技術で2006年のJリーグ、2007年のACLの優勝に貢献。
2007年のACLでは自身も5得点を挙げ得点王に輝いた。
2007年のJリーグでは7得点12アシストの活躍で2007年JリーグMVPに選ばれた。
2007年12月1日に行われた横浜FC戦において右膝前十字靭帯損傷
12月5日にブラジルへ帰国し、同14日には無事に手術を成功させている。
彼の特筆すべき点は劣勢の状況での勝負強さ。
2006年Jリーグの優勝がきまったG大阪戦での同点弾
浦和が始めての海外アウェイの試合であったシドニー戦の0-2からの引き分けに持ち込んだ得点、アシスト。
同じくACLでのイランでの先制点など、味方が苦しいときに点を取る、大舞台での強さもある
高度な技術と小柄ながらも強靭な足腰を持つため、対人プレーに強い。
抜群のキープ力を持ちボールを奪われることは稀である。
得点嗅覚に優れ、二列目からの飛び出しからゴールを奪う。
勝負強さを持っており、ここぞという所で必ず仕事をするメンタルの強い選手である。
また、守備も献身的に行う。現在J リーグ№1のチャンスメイカーである
2006年12月2日のガンバ大阪との優勝決定戦で後半38分に
坪井慶介と交代してベンチへ退いた後、あらかじめ用意していた楽器を使って
アレックスと共にサポーターの応援に合わせて陽気なサンバのリズムを奏でるなど、お茶目な一面もある。
レバークーゼン時代、「なぜポンテがブラジル代表に呼ばれないのか」という議論がヨーロッパ中で巻き起こったという。
J在京強豪クラブ幹部から「ポンテになら5億円支払っても惜しくはない」と言われるほど評価が高い。実際、ポンテ個人で試合が大きく変わる事も多く、それだけ好不調でチームへ与える影響力の強い選手である。
2008年1月26日に母国ブラジルで結婚式を行った。
相手はダニエリさん(当時23歳)で、披露宴はサンパウロにあるキリスト再生教会で取り計らわれた
この教会はACミランのエースカカも披露宴を行った聖地である。
1995年 - 1996年 CAジュベントス(ブラジル)
1997年 アメリカ・ミネイロ(ブラジル)
1998年 - 1999年 グアラニFC(ブラジル)
1999年 - 2001年 バイヤー・レバークーゼン(ドイツ)
2001年 - 2003年
VfLヴォルフスブルク(ドイツ)
2003年 - 2005年6月 バイヤー・レバークーゼン(ドイツ)
2005年7月 - 現 在 浦和レッドダイヤモンズ(日本)
2007年 - ACL得点王
2007年 - Jリーグ最優秀選手(MVP)、Jリーグベストイレブン
清水商出身DF 池田学の愛称である 顔がロボコップに似ていた為付いたニックネーム
その実力はトルシエにアンダー21代表入りを熱望されたほどの逸材だった
しかし残念ながら池田もケガ等により浦和でその実力を十分見せられぬまま去った1人である
99年の広島とのホーム最終戦、延長後半にVゴールを決めた福田選手にチームの誰よりも先に抱き付き
祝福の抱擁をしたが(勝利は嬉しいが得失点差僅か1でJ2降格決定の瞬間である)涙ぐむ福田選手に振りほどかれた。
ロボは状況を良く判っていなかったのだ。しかしイイ奴なのである どんな事があろうとも憎めないキャラなのだ。
ロボのブログはこちら http://robo660.blog26.fc2.com/