Vol.2 クレージー・コールズの幻影(後編)

■ Part.1/Y氏との対話(続)

  わずかな遅れであったにもかかわらず、私の携帯電話には
約束の時間に間に合わない旨を告げる律義な連絡が何度も届いていた。
駒場から浦和駅に向かう道筋にある待合せ場所の喫茶店。
そこにY氏は、あのゴール裏時代とまったく変わらない精悍な表情で現れた。
「でも野生味が消えました。もうあの頃の服がまるで似合わないもの」と笑ったが、
瞳の輝きも昔のままだ。
まるで旧知の間柄のように笑顔を交わし、
私たちはすんなりとレッズの話題に入って行くことができた。
だが話がレッズに対するスタンドからのサポーティングの件におよぶと、
やはりその表情からは柔らかな笑みは消えていった。

− やはり、あのクレイジー・コールズの応援を続けるには限界があったのでしょうか?
 「そういうことでしょうね。あの応援をあの環境下で続けるの
 は、僕にとってはもう限界だった」
− イタリアなどではサポーターに対する球団の支援は、
経済的な面に至るまで万全であると聞きますが…
 「いや、イタリアばかりじゃなく多くの国々がサポーターの価値というものを認めているんです。
 でも僕の場合はもう、生活が続かなくなった」
− 熱く、心に残るサポートでした。応援を見に行くという意識がファンにもありました。
 「スタンドではサポーター自身がそれまで見て体験して来たことが全部露出してしまうんです。
 音楽とか、文学とか、映画もそう……。スタンドでどんなに派手なことをやったって、
 やってる本人の内容が伴わなければカッコ悪いものになる。
 逆に言えば納得ゆく応援のためには、それ相応の強いイレコミが必要ってことです」
− 海外はもっとずっと激しいですものね。
 「中東や南米のサポーターなんて、命張って挑んで来ますからね」
− 次々と観衆を驚かせたパフォーマンスはあなたのアイデアなのですか?
 「ヒントはいろいろな人からもらったが、何をどう使うかは全部自分に決めさせてもらっていました。
 リーディングはハッキリした方向が見えている人間がすべきだと思うから」
− しかし、例えば94年当時の国立競技場でのヴェルディ川崎戦は観衆が5万人。
あなたが従えたレッズ・サポーターはクラブ・チームとしては日本サッカー史上最高の数です。
重荷とは感じなかったのですか?
 「生まれながらにオーディエンスが多いほど楽しみ、燃えるタ
 イプだったんですよ。だから、全然……」
− あなたが始めた応援が、いまだにワールドカップや国立での
日本代表の檜舞台で使われ続けています。
 「やる人間の内容が伴っていないと底は必ず割れる。
 そのことを理解してやっているかどうかってことです」
静かな語り口ではあったが、そこには聖域であるゴール裏の
熱狂を操るタクトを誰よりも先んじて執り続けてきた彼自身の自負が色濃く感じられた。
 「私を含めてレッズばかりでなく、レッズ・サポーターのファンだった人も沢山いたのですよ」
と伝えると彼は
 「観衆を万単位で増やしたって、本気で自負してるから」
と悪戯っぽく笑った。
質問に答える彼の言葉には、言葉以上の示唆があった。
だが、時間はあっというまに過ぎてしまった。
私は核心に触れる内容へと質問を移した。
− 極端な話ですが……サポーターの力でチームを勝たせるということは、
可能なことだと考えますか?
私は一般論としての回答を求めたつもりだったが、
やはり生来の戦士なのだろう、彼の答えは自分自身が闘うことを想定した上でのものだった。
 「やれと言われれば……そうだなあ……2時間なら。
 いまでもレッズがレッズらしく闘えるスタンドを作れると思う」
ゴール裏で闘い続けた日々を思い起こしているのか。
Y氏は目を輝かせながら答えた。
私は質問を続けた。
− 去年の11・27は、駒場のスタンドにいたのですか?
 「いましたよ」……答えたY氏の表情には、やはり陰りが生まれた。
− もしあの時、自分がまだサポーターであったらと考えましたか?
口に出してから、私は過ぎた質問をしてしまったと少々後悔した。
彼は苦笑しながらも答えてくれたが、恐らくそれは
「あなたも分かっていないなあ」
という呆れにも似た笑いであったかも知れない。
 「サポーティングはね。『異存があるのなら、あなたがやれば?』っていう世界なんです。
 だからあの応援がどうこうとは僕には言えない。でも……」
言葉を区切って、そして静かに彼は続けた。
 「11・27に関してはあの遥か以前に、
 皆でやるべきことがあったんじゃないかな……それは感じている」
私はこれ以上レッズに関する質問で彼を拘束することに、
ある後ろめたさを感じ始めていた。
和やかに応対してくれてはいても、本来はもうまったく違う世界に身を置く人物である。
私は最後の質問を彼にぶつけた。
− いつか、何らかのカタチでレッズをサポートする立場に戻ることはあるのでしょうか?
彼は即座に首を横に振った。
 「ないです。いまのままのレッズならそれはない。
 いまのレッズよりも、僕が好きなのは間違いなく“心のチーム”のレッズの方だから……」
ある程度覚悟はしていたのだが。
インタビュー終了の雰囲気は、始まりのそれに比べて暗く落ち込んだものとなった。
それは取りも直さず、レッズのあの“ゴール裏”を創造したY氏でさえも
愛するチームの未来に光明を見出だせずにいることが確認できたことによる。
J2に転落し、優勝での復帰ももはや叶わない……。
押し黙っている私に気づいたのか、幾分の笑みをたたえながらY氏は言葉を継いでくれた。
 「でもね、夢は持ち続けているんですよ。優勝して中仙道(浦和中心街の目抜通り)
 をパレードするレッズを、俺はイメージできますから」

*このインタビューは2000年8月中旬時点で収録された。
Y氏の意向により、現在のレッズおよびレッズ再生に向けて明かせる彼の所見はここまでである。
続きは
 「まだ自分自身で見極められない部分がある」
と述懐するY氏自身の手によって顕わされる日を待つしかない。
 「多くのサポーターがそれを待っていると思います」
と伝えると、彼は笑顔を浮かべて頷いてくれた。
(この項、了)

■ Part.2/御礼、そして予告

拙著の発売以来、さまざまな感想や励ましのメールを戴き本当に有り難く思っています。
皆さんからの感想やお尋ねの中でいちばん多かったのは、やはりギドに関する件でした。
多くの方々が(もちろん私自身もそうですが…)
彼の動向に思いを馳せていることを改めて実感した次第です。
彼は自身の去就についてのさまざまな可能性を語ってくれました。
もちろんそれはこのコラムなどでご紹介しようと思うのですが、
当然、私のような1ファンには測り得ないデリケートな部分も介在しております。
いま、愛するレッズは新監督も決まり、体制を固めなおしている時。
この話題はさらに取材を加え、タイミングを見て
未来のレッズへのエールとしてお話した方が得策と思います。
球団やフロントに対しての意見や提言も戴きました。
「PRIDE OF URAWA」のハートに照らして、
いまのレッズのあり方に多くの意見が存在するのは当然のことと思います。
次回(1月末〜2月頭になります)は、
『生還』では記すことができなかった
「PRIDE OF MITSUBISH」
についてお話してみようと思います。

第2稿 了 2000年12月30日

「駒場漂流過去ログページ」

皆さんの感想が豊田さんのモチベーションとなり次のコラムとなります。
是非とも感想は「豊田充穂コラム感想掲示板」までお願いします。

<無断転用・転載を禁じます> 

豊田充穂著
『浦和レッズJ2戦記・生還』  
          


2000年12月21日発売
マガジンハウス刊/定価:本体1,300円(税別)

 あの11.27の衝撃からJ1復活を決める11.19の延長Vゴールまで。
358日間に及ぶ浦和レッズ&レッズ・サポーターの苦闘を描く渾身のドキュメント。
降格の日のピッチから立ち上がりJ2の舞台に臨んだ小野伸二らレッズ・イレブンは、コンサドーレ札幌やアルビレックス新潟などの激しい迎撃を受けるドロ沼の闘いに引きずり込まれる。公約のJ2制覇は遠のき、ライバル・札幌に圧倒されるレッズの惨状を目の当たりにするに至り、著者はレッズの精神的支柱であったギド・ブッフバルトに会見すべくドイツ・シュヴァルツバルト(黒い森)へと旅立つ……。
 連戦のプレッシャーに耐えつつ自らのプレーの復権を目指した永井雄一郎、室井市衛らの肉声。勝ち切れないチームに「結束の危機」を迎えたウルトラたちの焦燥。球団の改革を促すために立ち上がった大槻卓哉・村田要らの活動録……等々、多角的なアングルから追跡した浦和レッズ・シーズン2000の軌跡。

豊田 充穂 (とよた・みつほ)

コピーライター&イラストレーター。
幼稚園から大学卒業までを浦和市別所および仲町在住で過ごした生粋のURAWA−BOY(?)。
日産自動車、SONY、フィリップ・モリスなどのTV・新聞キャンペーンを手がけた広告代理店勤務時代を経て、
97年・豊田中島広告事務所設立。
95〜96のJリーグ・オフィシャルガイドの編集に参画。執筆においては、
今回の『浦和レッズJ2戦記・生還』がデビュー作。

メッセージ
「浦議はよく見てます。好きなのは『野次掲』。
ぜひ私も書き込みたいのですが、
皆さんの鋭いセンスに恐れ入るばかりでいまだに書き込んだ経験はありません。
HNまで用意してあるのですが……(笑)」

E−Mail/tn_ad_office@yahoo.co.jp