
| Vol.4 PRIDE OF MITSUBISHI(後編) ■ Part.3/ メキシコ世代 東京オリンピック、日本対アルゼンチン戦…… 歴史的勝利に沸いた駒沢サッカー場のインタビュールームに詰めかけた報道陣は、 あのデットマール・クラマーの哲学的な示唆さえ感じさせるコメントに聞き入っていた。 「我々は勝った。勝ったからこそこんなに多くの記者諸君が集まってくれた。 勝者には友人が多い。だが、敗者にこそ友人は必要なのだ」…… 当時、判で押したようにくり返された 「日の丸を背負って」「国民の期待に応えるために」 といった他競技の日本人首脳の言葉とは一線を画する クラマーの勝利インタビューには、 メディアのヘッドラインを飾るにじゅうぶんな風格が漂った。 が、後にフランツ・ベッケンバウアー主将以下の バイエルン・ミュンヘンを率いるこの世界的伯楽が日本サッカーにもたらした変革は、 むろんそれだけではなかった。 クラマーとともに東京五輪代表を率いた長沼健、岡野俊一郎らの 首脳陣がアルゼンチン戦に送り出したメンバーには、 大会前には予想にものぼらなかった無名の若手プレーヤーが数多く抜擢されていた。 この試合の活躍で南米プロからの勧誘を受けるに至る 杉山隆一(明大)や川淵三郎(古河電工)の選出は妥当としても、 長きに渡って日本のエースとして君臨してきた小沢通宏(東洋工業)の名が消えていた。 代わりに次代のエースを約束された才能として釜本邦茂(早大)がデビューを果たす。 そしてこの大一番の日本ゴールを守る重責を担って登場した男、 それが立教大学の学生であった横山謙三だった。 GKがとりわけ経験と熟練を要するポジションであることは当時も今も変わりはない。 この南米の巨人から日本ゴールを守る大役を担うのは、 当時の数少ない国際舞台「ムルデカ大会」でも大活躍を演じていた名手・保坂司(古河電工) をおいて他にない……。 誰もがそう信じていた。 だがクラマーおよび日本首脳陣の大英断によって駒沢のピッチに登場した 弱冠21歳の横山は年齢ににつかわぬ落ち着きで日本のリードを守りきり、 ベルリンの奇跡以来といわれた大金星への貢献を果たす。 試合終了のホイッスルと同時にグランド上に伸びてしまったアルゼンチンイレブンの中には、 2年後のW杯イングランド大会で世界的ディフェンダーとして名を轟かす 名手ロベルト・ペルフーモも含まれていた。 「私も含め、選手全員が泣いていた」 後にバティストュータを擁するアルゼンチン代表の コーチング・スタッフとしてキリンカップに来日した彼は、 遠い日の悔恨を笑顔に隠しつつそう述懐している。 やがて日本サッカー史の消えざる足跡となるメキシコ五輪へと連なる道を、 ともに歩むことになる戦士たち。杉山隆一、釜本邦茂らがあいまみえた時代。 それが東京五輪以降の日本サッカー近代史の黎明期であり、 そのメインステージが「日本サッカーリーグ」だった。 そして日本サッカー変革の潮流を受けて出現した守護神こそ、横山謙三その人であった。 初代のユース日本代表でもあった杉山隆一は、 その活躍を認められて清水東高校在学中にフル代表入りしを果たした早熟の名手である。 対する横山謙三も東京五輪後、 再起を危ぶまれる交通事故を乗り越えて代表復帰を果たした 「日本の守護神」であった。 清水出身の杉山。そして東京神田に生まれ、浦和で育った横山。 シーズン1966、日本サッカーの次第を担うサラブレッドの双璧を手中にした 三菱サッカーには洋々たる前途が広がっていた。 そして迎えた翌年のシーズン1967。 サッカーファンの耳目は再びふたつの才能の去就に注がれることになる。 この年の天皇杯決勝で常勝・東洋工業を退けて日本一に輝いた早稲田大学サッカー部の 森孝慈主将とストライカー釜本邦茂。 ふたりは杉山、横山に続いて三菱重工への入団が有力視されていた。 仕事ひとつの身の振り方にも、色濃く「縁故」が反映されていた時代である。 森は兄・健児が三菱重工のMFであったこと、 釜本は父親が三菱関連の企業に勤務していたことがその裏付けだった。 GKに横山を置き、中盤に森孝慈、そして前線に杉山、釜本の黄金コンビが顔をそろえる……。 三菱ファンが思い描いたこの王者・東洋工業をも凌駕する豪華な「ドリーム・チーム」は、 リーグ開幕寸前の時期になって文字どおり夢と消える。 釜本が入団を表明したチームが、意外にもヤンマーディーゼル・サッカー部であったからだ。 彼の入団を待つ間にも、日本リーグの入替戦にかろうじて勝ち残る苦しい闘いを続けていた 関西の弱小球団である。 (ちなみにこの入替戦の相手は、その活躍を伝説として語り継がれる「浦和クラブ」だった) 杉山、横山に森孝慈を加えた三菱重工が、東洋工業に加えて相対することになるライバル。 それが日本の主砲・釜本邦茂を獲得し、 強豪への変貌を遂げつつあった大阪のヤンマーディーゼルだった。 ■ Part.4/ 宿敵、釜本ヤンマー 釜本邦茂の日本リーグデビュー。そのインパクトを現在に置き換えて提示することは難しい。 全盛時のロナウドがいまのJリーグに登場したシチュエーション、といったら言いすぎだろうか。 1ゲームもプレーしていない開幕前からダントツの得点王候補。 マスコミ注視のデビュー戦ではその強シュートが相手GKの指の間を裂き、 病院送りの痛手を負わせるというショッキングなニュースを提供する。 自分のシュートをセーブした相手キーパーに、「よう止めた」と声をかけるふてぶてしさ。 当のGKは動揺をおし隠すテレ笑いをこの恐るべきルーキーに返すしかない…… ヤンマー戦を中心に組まれ始めた日本リーグの中継映像で、 全国のファンはケタはずれのストライカーの素顔を実感することができた。 三菱vsヤンマーは、たちまちリーグの看板を担う黄金カードにのし上がる。 そして杉山、横山以下の三菱重工はその頃すでにこの 「釜本ヤンマー」とは好対照をなすいぶし銀のようなチームカラーを確立していた。 立上がりから目一杯のパワープレーを仕掛けてくる釜本の性格を 大学リーグ時代から熟知していた杉山は、 散々に攻めさせた後に得意の駿足でヤンマー陣ふかく切り返すという痛快な逆襲を頻繁に試みた。 そして横山謙三は……。唸りをあげて飛んで来る釜本のシュートのセーブに成功しても、 顔色ひとつ変えない無表情を押し通した。 不敵な笑みまで相手GKに送ってくる釜本の常套手段も完全無視。 CKにそなえ、コーナー方向に視線を向けたまま悠然とゴールポストに スパイクを当てて泥を落とす仕草を繰り返した。 代表のチームメイトとして力量も知り尽くした間柄とはいえ、 それは不世出のストライカ−に対する憶することない闘志の表示であり、 観る者にも拮抗した対決が繰り広げられているピッチ上の緊迫感を体感させた。 登場以降12年間の日本リーグにおいて、得点王7回。 200を超えるゴールスコアを刻んだ日本サッカー史上最高のストライカーと 相対した三菱サッカーとGK横山謙三のプレーぶりは、気骨に満ちたものだった。 三菱とヤンマーはその後のチーム戦術においても対照的な道筋をたどる。 ボルシア・メンヘングラッドバッハのヘネス・バイスバイラーを信奉した二宮寛監督の 「欧州型」組織プレーを推進する三菱。 そして鬼武健二監督・加茂周コーチ以下、「南米型」個人技のチームづくりを標榜するヤンマー。 特にニューウェーヴを自任していたヤンマー首脳陣は、 自社現地法人を基盤として当時としては画期的なブラジルの血の導入を開始していた。 御大・釜本のもとに招集された王国出身の面々はネルソン吉村、カルロス、そしてジョージ小林……。 王様ペレの故郷からやってきたそれらのメンバーには名前にもプレーぶりにも本場を 実感させる華やかなイメージが付きまとった。 そして彼らが披瀝するハデな個人技はヤンマーファンの少年たちを熱狂させ、 それがなおさら杉山、横山が持つもの静かな威厳に憧れる私たち三菱ファンをイラつかせた。 だが、直接対決の舞台においては。 宿命のように「釜本ヤンマー」に対峙する歴史を辿った「杉山と横山の三菱」は、 私たちサポーターの期待に応える戦績を着実に積み重ねる。 釜本人気に迎合し、「ヤンマー有利」を唱え続けたマスコミに反発を示すかのように。 彼らが同じピッチ上であいまみえた7年間・都合14回におよぶリーグ対戦で、 私たち三菱ファンがラテン気質のヤンマー勝利のおたけびを見せつけられたのは わずか2回だけだった。(通算三菱の4勝8分け2敗:1967〜73)。 気鋭の若き指導者であった加茂周が構築したヤンマーDF網は杉山の快走には通用せず、 横山のセービングは世界のカマモトの破壊力の封印に成功した。 日本リーグの歴史を飾った黄金カード、 三菱vsヤンマーはそう総括できるのである。 そして、たとえブラジル仕込みの個人技でスタンドを沸かせる場面は作らなくとも……。 三菱サッカーを釜本ヤンマーに先んじさせたものは、 持ち味である「速さ」をいかす組織力。 そして何より下馬評の劣性をもスピリットで跳ね返す、 その「闘魂」であるに違いなかった。 ■ Part.5/ ヒーローたちの岐路 60年代後半から70年代半ばまで、日本リーグを席巻し、 絶頂期の釜本ヤンマーと火花を散らした三菱サッカー。 その勝利への激しい気迫について語られたエピソードは数多い。 そして、常にそのエピソードの中心として伝承されてきたのが杉山隆一の存在である。 伝説となったタッチライン際のドリブルの陰には、幾 多のディフェンダーとの壮絶な渡りあいを物語る負傷との闘いがあった。 創痍の両膝の痛みをテーピングと麻酔注射に隠し、 東洋工業の5連覇を阻止した1969後期の広島県営競技場における快走。 そして左肩亜脱臼を押して強行出場し、 日本を本大会出場へと導いたメキシコ五輪予選(1967)における韓国戦、 南ベトナム戦での連続ゴール……。 気力のひとしずくまで消耗するかのような杉山のプレーには、 鬼気迫る勝利至上のスピリットが充満していた。 それは三菱イレブン全員を無言のままに鼓舞し、 さらにはピッチ上からあふれ出てスタンドのすべての観衆、 すなわち私のような他愛もないサッカー小僧にまで消すことのできない印象を残した。 私がこの三菱のスピリットを初めて肌で感じた舞台は、他ならぬ浦和・駒場サッカー場である。 68年のプレシーズンであったと思う。 来日していた韓国大学選抜との対戦が浦和で行われると聞いたヤンチャ坊主たちは、 砂埃にまみれた粗悪な芝が広がっていた駒場の仮設スタンドに自転車で駆けつける。 学生相手のテストマッチというのに、 間近に見るグラウンドには観衆も縮み上がるような激しい怒号が飛び交った。 監督兼任、交替出場の二宮寛と杉山が両翼に位置し、 入団2年目の森孝慈からの送球に容赦ない注文を浴びせていた。 「左、見ろ」「遅い!」「もっと前を狙え」…… すでに代表ではレギュラーの地位にあった森も、ここでは未熟な若手に過ぎない。 だがリーグ初制覇への途上にあった三菱にとって、 この刺すようなチームの緊迫感はむしろ日常であったという。 当時の三菱主将・片山洋はコンディションを崩したりする選手が現れると、 それがたとえエ−ス杉山であっても代表合宿のグラウンド上で激しく叱責した…… 当時の代表監督であった長沼健は自らの著書でそんなエピソードを明かしている。 当然のことながら、チーム全体を覆うこのスピリットは最後尾に構える横山謙三も踏襲する。 思い起こされるのはメキシコ五輪の3位決定戦である。 釜本&杉山の連携で地元メキシコを2−0とリードして迎えた後半。 本場・南米ならではの完璧なアウエーのピッチ上で、 横山は語り継がれる敵のPK阻止に成功する。 だが、圧巻はその直後のシーンだ。 ファインセーブに感きわまった片山洋が抱きつく。 だが冷静さを微塵も失わない横山は、 凍りつくような勝負師の形相でこの熱血のチームメイトをにべもなく振りほどく……。 抱え込んだボールに片山の手が触れれば、再びPKを宣告される危険があったからだ。 翌年に公開された大会の公式記録映画『太陽のオリンピア』 でもアップの映像でとらえられていたこの瞬間の横山の表情を、 私は早朝の中継テレビで手に汗しながら見守った。 地元メキシコを応援していたアステカ・スタジアムの巨大なスタンドの喚声が、 東洋の国からやって来た遠来のイレブンを賛える 「ハポン、ハポン、ラララ」 の大合唱に変わったのはこの直後のことである。 それぞれがもの静かな威厳を保ち、闘う姿勢の欠如は自らの掟として許さない……。 さながらサムライを思わせる気概に満ちた三菱イレブンの残像は、 30年という時間が流れたいまも鮮明である。 私が心に感じている PRIDE OF MITSUBISHI は、 ここに記した記憶の数々に由来している。 それでも、現在の駒場のスタンドを赤く染めるサポーターたちは 必ずや疑問を呈するだろう。 「それならばいまのレッズに、 その PRIDE OF MITSUBISHI は継承されているのか?」 と……。 ある古いサッカー仲間は、苦笑をまじえながら言う。 「それは杉山隆一が磐田に持ち帰ってしまったんだよ」 一理ある見解なのかもしれない。 74年正月の天皇杯制覇の後に引退を表明した杉山は、 二宮寛監督の座を継ぐものと期待したファンの思いを背に三菱を去る。 郷里の清水に帰り、4月には創部直後のヤマハ発動機サッカー部監督に就任するのだ。 わずか7年後に日本リーグ1部昇格、 8年後に天皇杯を制したヤマハのその後の躍進は、 指導者および球団経営者としても 比類なきリーダーシップを発揮した杉山の存在ぬきには語り得ない。 そして、25年の歳月を経たシーズン1999。 横山謙三がGMを務めた浦和レッズがJ1から転落した秋に、 ヤマハを前身とするジュビロ磐田は静岡ダービーを制して2度目のJリーグ王者に輝く。 だが、逆説として考えるならば。 杉山が森孝慈に代わって指揮を執り、 横山に代わってGMを務めていたとしたら、 わが浦和レッズが辿る命運は違っていたのだろうか……。 現在、ジュビロ磐田のシニア・スーパーバイザーを務める杉山の述懐は、 この仮定のむなしさとは裏腹の貴重な示唆を我々に与えてくれる。 あれはハンス・オフト率いる日本代表を追った、数年前のTVドキュメンタリー番組だった。 日本サッカーに変革をもたらすに至るこのオランダ人監督を発展途上のヤマハに迎え、 後に代表監督として日本サッカー協会に引き継いだキーパースンとして マイクを向けられた杉山はこう語った。 「過去に実績を持つ人材でも、明日の勝利のために切り捨てられる。 そういう厳しさをチームの活力に変えて使いこなせる… …日本人には到底なしえない、彼ならではのプロフェッショナリズムが、 いまの我々には必要と考えた」 日本のアマチュアの戦果としては限界を極めた、 といわれた森孝慈率いる日本代表がプロの韓国に屈した後だった。 若手の育成には評価を得ていた横山ジャパンがアジアで敗退した直後だった。 この杉山のコメントの中には、 ヤマハというチームの育成を通してプロ化を目ざす日本サッカーの未来を模索した 彼自身の結論が見て取れる。 そして、さらに忌憚なくいえば。 この言葉に表現されたオフトの人物像は、 そもそも杉山や横山を東京五輪にそなえて大抜擢した デットマール・クラマーにぴたりと当てはまるプロファイルでもあるのだ。 杉山がなぜ三菱を去ったのかは謎である。 その後を受けて浦和レッズの監督あるいはGMに就任した森や横山が直面した問題は、 これまたファンには知ることはできない。 あるいはそこには、長く低迷を繰り返した日本サッカー界が 普遍的に抱える闇が存在するのかもしれない。 クラマーの変革を選手という当事者の立場から体験し、 ゲームではあれほどの気迫で敗北を拒否し続けた杉山のことだ。 磐田という新天地での再出発は、 次なる勝利のために彼自身が下した「決断」であったのかもしれない。 この夏。ジュビロ磐田は日本サッカー史に足跡を残す重責を担って 第2回世界クラブ選手権が開催されるスペインに赴く。 ヤマハを前身として発展を続け、巨人レアル・マドリードに敵地で挑むに至った彼らは、 Jの構成球団の中でもひときわの成功を収めているクラブに見える。 だが、私は PRIDE OF MITSUBISHI は 杉山が磐田に持ち帰ったものであるとは思わない。 闘将・中山雅史以下、地元・静岡出身のプレーヤーがひしめくイレブン。 次々と登場してくる、ユース年代からの若い才能。 そしてこまやかに配慮された環境……。 これは PRIDE OF MITSUBISHI を糧として、杉山が磐田に築き上げた PRIDE OF SHIMIZU にほかならない。 かつて PRIDE OF MITSUBISHI を杉山とともに体現した横山謙三は、 浦和レッズGMとして浦和を舞台に PRIDE OF URAWA を築くことができるだろうか……。 ハードルは多く、残された時間は少ない。 だが、これほどまでにサッカーが愛される街なのだ。 可能性、そして方策はふんだんに残されているはずである。 第4稿 了 2001年3月23日 「駒場漂流過去ログページ」へ 皆さんの感想が豊田さんのモチベーションとなり次のコラムとなります。 是非とも感想は「豊田充穂コラム感想掲示板」までお願いします。 <無断転用・転載を禁じます>
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