Vol.3 PRIDE OF MITSUBISHI(前編)


■ Part.1/ 郷愁の「三菱重工」

 「『生還』、拝読しました。いやぁ、よく書かれましたね」
「それはどうも……」
「いえね、そう申し上げるのもあのフロントに対するくだりですよ。
球団に対するあそこまでの批判精神で迫った本は、
いままで無かったよなぁ」
「……?」
「ふがいない三菱のサッカーを受け容れられない、
豊田さんの PRIDE OF URAWA を感じましたね。
いや、ホントに感心した」
「……そう感じられましたか」
これは、先日ある公的機関に勤務している方と交わした会話である。
『生還』を購読してくれたという彼は
、どうやら拙著の中で展開されたフロントに対する論旨を
相当な「批判」と解釈しているらしい。
「さすが浦和出身ですよ。
よほどの背景がないと、あの厳しい視点は出てこない」
「……」
私は少しばかり当惑していた。
確かに『生還』の中に記されたレッズ・フロントに対する私の記述は
厳しいものだったかもしれない。
そして私自身の内なる PRIDE OF URAWA の思いは、
結果として彼の読後感にかなりのウェイトを占めて到達したのかもしれない。
だが、だからといって私がアンチ三菱、
かつ浦和サッカーだけの信奉者であるという結論にされてしまうのは抵抗があったのだ。
実のところ、この場を借りて申しひらきをさせてもらうならば……。
ちょうど現在のウルトラ諸君が、駒場を舞台に人生を賭けてレッズ勝利を渇望するように。
かつての私は「日曜日午後2時の国立競技場」のスタンド最前列に陣取る常連だった。
それはもう30年以上も前のことである。
我らが浦和レッズが誕生する遥か以前の思い出である。
が、その印象は昨日のことのように鮮烈だ。
幼いながら、私は夜に昼を継ぐ思い入れで「三菱」のゴールを待ち続けていた。
青いマフラーを着込み、青いユニフォームの三菱イレブンに絶叫の声援を送っていた。
そして、白のヤンマーのユニフォームに野次と罵声を浴びせていた……。
確信を持って言える。
私は全身で PRIDE OF MITSUBISHI を体現する、
まごうことなき「三菱サポーター」だった。

 東京オリンピックの翌年に
デットマール・クラーマーの提唱で発足した日本サッカーリーグは、
創設から2年目のシーズン1966を迎えようとしていた。
この年に他のライバルたちを圧する補強を行い、
ファンとマスコミの注目を一身に集めていたチーム。
それが「三菱重工サッカー部」だった。
草創期にあった当時のJFLの勢力図は、
名将・下村幸男率いる広島の東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)を頂点に
八幡製鉄、古河電工(現・ジェフ市原)といった古豪が
上位を堅持する無風状態が続いていた。
前年のリーグ初年度でわずか4勝しか上げられず
8チーム中の5位に甘んじた三菱重工はいわば新興勢力であり、
人気も実力もいまひとつの地味な下位球団であった。
そんな弱小・三菱の補強が、なぜそれほどまでに当時の話題を独占するに至ったか……。
理由はひとりのスタープレーヤーの入団に尽きる。
これはおそらくその後の名門・三菱の命運のみならず、
メキシコ五輪の栄光に連なる日本サッカーの足跡をも決定づける歴史上の重要エッセンスだった。
この年の新人として、赤のダイヤモンドが輝く
「MITSUBISHI FOOTBALL CLUB」
のエンブレムをあしらった青いユニフォームに袖を通した男の名前は杉山隆一。
東京五輪のアルゼンチン戦において電光石火のドリブルから先制ゴールを決めて
歴史的勝利を呼び込み、
南米プロから20万ドルの移籍金で勧誘された当時の日本代表のエースである。
その頃の杉山はサッカー界という範疇を越えた“時の人”であった。
世界のプロサッカーの市場スケールなど、まだ日本人の誰もが知る由もない。
長島茂雄の1500万円という巨人軍入団契約金が延々と伝説として語り継がれる……
そんな時代である。
明大の学生選手にすぎなかた“マイナー・スポーツ”
サッカーの星・杉山隆一に提示された20万ドル、
日本円にして7200万円(当時は1米ドル=360円の固定相場)
という金額は世の人々を驚愕させ、格好の週刊誌ネタにされる事態となっていた。
そして特筆すべきは彼の三菱入団までの経緯である。
あろうことかこの前年、日本リーグの創設初年度に杉山は「浪人」を経験していた。
大学卒業後に予定されていた八幡製鉄入団が破談となった。
そしてたまたま郷里の静岡で行われた名古屋相互銀行vs三菱重工のリーグ戦を観戦していた彼は、
三菱の球団関係者から勧誘を受けることになる。
本場プロにスカウトされたほどの日本代表のエースが浪人中のスタンド観戦で入団を打診される……
およそ現在のJリーグでは考えられない。
ほのぼのとした雰囲気さえ醸し出す当時のサッカー事情ではあるが、
この不思議な巡り合わせは三菱にとっては得がたい幸運であったといわねばならない。


■ Part.2/ 「速さ」と「闘魂」のサッカー。

 日本の至宝を迎え入れた三菱重工は、
みるみる日本リーグの王座を争う強豪へとのし上がっていく。
当然、観衆も黄金の脚・杉山が登場する三菱の対戦カードにつめかけた。
むろん私もその中のに数多く含まれていた少年ファンの一人だった。
そして杉山のプレーは、大多数が「サッカー初体験」であった
当時の観衆の期待に応える見事なものであった。
日本リーグのデビューとなった駒沢サッカー場での日立(現・柏レイソル)戦
では終了直前に30メートルにおよぶロングシュートの決勝点。
日本代表が初めて英国プロサッカーに挑戦した
その年の夏のスターリング・アルビオン(スコットランド)戦では、
国立競技場を埋めた大観衆を前に本場プロのDF陣を翻弄する快走を披露。
“20万ドル”の真価を満天下に納得させた。
この試合のスタンドでは、杉山の駿足を間近に見ようと彼のポジションである
左タッチライン際のシートを目ざして前後半を境に大移動を行なうファンまで現れた。
また、ほぼ同時刻に国立競技場にほど近い神宮球場では巨人戦のナイターも行われていた。
時あたかもON砲の全盛時代。
球界の話題を独占する新人連勝記録を続けていた新星右腕・堀内恒夫が
マウンドに登っていた夜だった。
渋谷から神宮外苑方向に向かう車と人の大渋滞を見て、
スポーツ紙の記者たちはプロ野球を追うサッカー人気の盛り上がりを肌で感じていたという。
誰も予想だにしなかった「サッカーブーム」がこの国に訪れようとしていた。
そして、その中心にいたスーパースター・杉山隆一が選んだチーム、
それが浦和レッズの前身である三菱だった。

 欧米プロの猛攻にさらされる圧倒的な劣勢の場面で、
胸のすく快走が一気に形勢を盛り返す。
大男たちをごぼう抜きにするドリブルで反攻に転じる……。
この杉山隆一のカウンターはストライカー釜本邦茂の得点に直結する
当時の代表の宝刀であり、
また日本に初めて出現した「スタンドの大観衆」を熱狂させる最大の見せ場であった。
私たち少年ファンが、王国からやってくる強豪たちを
青ざめさせるこのエキサイティングな瞬間にのめり込んだことは言うまでもない。
東洋工業や古河電工など当時の強豪と相対する三菱重工の戦術にも、
彼の快走を起点とする攻撃パターンは踏襲された。
そして、その強烈なインパクトが三菱サッカーの印象を根本的に変革していった。
じっくり守ってチャンスを窺い、
切れ味鋭いスピードを持つエース・アタッカーを起点とした反撃で
スタンドの興奮を呼び起こす……。
この杉山隆一に始まる「速さ」をキーワードとする攻撃は、
後の黄金時代を支えた三菱ならではのお家芸として受け継がれてゆく。
右サイドからの高田一美の快走があった。
中盤から高速でゴール前に現われる藤口光紀の速攻があった。
そして、穿った見方を許してもらえるのなら。
この攻撃作法は後のレッズの福田正博、岡野雅行のスピードにも通じてゆく
三菱伝統のカウンターのプロトタイプといえないだろうか。
ただ、そこに違いがあるとするならば。
わが郷愁の三菱には、レッズが持ちえない「闘魂」があった。
ここ一番で釜本擁するヤンマーを、
小城得達擁する東洋を、
確実に粉砕する自我があった。
激しい気迫でゲームをひっくり返す、痺れるようなスピリットがあった。
全員が満身創痍のコンディションに陥りながら
5連覇を目ざす東洋工業を敵地・広島県営競技場で葬り、
ついに日本リーグ初制覇を果たしたゲームなどはその象徴といえる。
「速さ」の陰に、燃え上がる「闘魂」を秘めたサッカー。
黄金の脚・杉山に由来するこの三菱サッカーの創世が、
同時期に入団した山田弘(現姓・落合/浦和市立高校−東芝)や
森孝慈(広島修道高校−早大)の台頭に少なからず影響を与えたことは間違いない。
そして、忘れてはならない。
このシーズン1966に三菱サッカーを担い、
その命運を変えたもう一人の大型新人が入団していた。
杉山と同じく、あの東京五輪・アルゼンチン戦の歴史的勝利の際に、
弱冠21歳の不動の守護神として
日本代表のゴール前に立った天才ゴールキーパー・横山謙三である。

(この項、続く)

第3稿 了 2001年2月16日

「駒場漂流過去ログページ」

皆さんの感想が豊田さんのモチベーションとなり次のコラムとなります。
是非とも感想は「豊田充穂コラム感想掲示板」までお願いします。

<無断転用・転載を禁じます> 

豊田充穂著
『浦和レッズJ2戦記・生還』  
          


2000年12月21日発売
マガジンハウス刊/定価:本体1,300円(税別)

 あの11.27の衝撃からJ1復活を決める11.19の延長Vゴールまで。
358日間に及ぶ浦和レッズ&レッズ・サポーターの苦闘を描く渾身のドキュメント。
降格の日のピッチから立ち上がりJ2の舞台に臨んだ小野伸二らレッズ・イレブンは、コンサドーレ札幌やアルビレックス新潟などの激しい迎撃を受けるドロ沼の闘いに引きずり込まれる。公約のJ2制覇は遠のき、ライバル・札幌に圧倒されるレッズの惨状を目の当たりにするに至り、著者はレッズの精神的支柱であったギド・ブッフバルトに会見すべくドイツ・シュヴァルツバルト(黒い森)へと旅立つ……。
 連戦のプレッシャーに耐えつつ自らのプレーの復権を目指した永井雄一郎、室井市衛らの肉声。勝ち切れないチームに「結束の危機」を迎えたウルトラたちの焦燥。球団の改革を促すために立ち上がった大槻卓哉・村田要らの活動録……等々、多角的なアングルから追跡した浦和レッズ・シーズン2000の軌跡。

豊田 充穂 (とよた・みつほ)

コピーライター&イラストレーター。
幼稚園から大学卒業までを浦和市別所および仲町在住で過ごした生粋のURAWA−BOY(?)。
日産自動車、SONY、フィリップ・モリスなどのTV・新聞キャンペーンを手がけた広告代理店勤務時代を経て、
97年・豊田中島広告事務所設立。
95〜96のJリーグ・オフィシャルガイドの編集に参画。執筆においては、
今回の『浦和レッズJ2戦記・生還』がデビュー作。

メッセージ
「浦議はよく見てます。好きなのは『野次掲』。
ぜひ私も書き込みたいのですが、
皆さんの鋭いセンスに恐れ入るばかりでいまだに書き込んだ経験はありません。
HNまで用意してあるのですが……(笑)」

E−Mail/tn_ad_office@yahoo.co.jp